明治・大正・昭和を駆け抜けた「尾道商業学校」時代

「尾商」の通称で知られる現在の尾道商業高等学校は、最初は、後に創立者となる「市邨芳樹」先生と、尾道の有志の方たちによって、十四日町の艮神社境内に「私立尾道商法講習所」が開かれました。当初、数名だった生徒は、教わったことが翌日にすぐ実践で活かせることを知り、教わりに来る人々が次第に増えていきました。翌年の明治21年には、米場町に「公立尾道商業学校」を開校しましたが、わずか数年で長江(現在の長江小学校)へ、校舎を新築移転します。残念ながら開校以前の写真は残されていませんが、明治から大正・昭和の自局下での教育を経験した生徒たちの写真がたくさん残されており、当時の生徒たちの学校生活を見ることが出来ます。

市邨の講義は、即実践。夜学び、 翌日には生かされた。(「想ひ出づる古き歴史」5頁より抜粋)

店をしまってその足で講習所に駈けつけるので、いづれも角帯前垂れ姿の生徒さんばかりであったが習ったものはすぐその翌日から活用できるといふので先生も生徒もその学習ぶりは火の出るような真剣さに終始し、10時の就業時間を過す日が幾日も続いた。

「汝が愛する運動場は汝が汗にて築け」(大正14年 会誌 第11号)

遂に遂に我々は日頃の希望が受け入れられて自分達の手でここに運動場の拡張を行うことになった。 ほんとうに僕は嬉しくてならない。それは拡張費が支給されない故に余儀なくさせられたようなもの、たとえ僕は資金が得らるるとしても、このことばかりはやはり僕たち自身の力で決行するのがいい事だと考える。それはあたかも人の親が子供の養育を他人にゆだねるのを好まないという心持に外ならない。・・・金を使って人夫の手に委ねようよりも僕は自分達の流す汗によって徐々にでも築き上げた方がより深刻な意義を持ち一層の愛着が感ぜられてそこに光彩ある運動場が出来上がるものと思うのだ。・・・されば我が友よ、共に奮って立とう、あの丘の一つくらいが何であろう、我らの胸へ立つ意気は、富士の山さえ打ち崩さねばならぬ、小さき蟻でさえ、あの堤防を壊すと言うものを。

「大遠泳」(大正12年11月 同窓会報 第19号)

7月30日(月曜日)日本晴。風穏やかに波静か、実に競技会の絶好日和である。街路に張られた尾商水泳部大会のビラは異常に世人を刺激したと見え、来り見る者六七百人を過ぎ、遠く海浜に立ち並んで観覧する。好機来る!!あっぱれ尾商健児の怪腕の振るうの時は至れり!!連日の猛練習に鍛えし鉄腕最新泳法に腕は鳴る。神伝流諸手抜、雁行、櫓業、うりむぎ等、水際立った腕前に思わず拍手し外国競泳には観客目を見張り鳴りを静め、その他種々の応用水泳術をやり盛会裡に終わった。前日の遠泳には苦楚し、本日の競技会は最も愉快に、共に本年水泳部の記録の花形として永く我が水泳部の参考資料となるを疑はない。

「時局下のわが尾商」(母校だより 昭和16年12月)

物資の不足、時間の制限、過重な心身の負担にも屈せず、食糧の増産に、学力の向上に更に第一線に立って活躍を目指しての体力の増進に、それぞれ涙ぐましい献身的努力を続けている若き日本の力が、今母校の庭に培われつつあるのである。既に学窓を離れて社会に活躍しつつある先輩同窓生も孜々として励みつつある。これら700の後輩のため、一入の御後援をお願いしたいものである。※悪化する時局の中でも、母校と同窓生の連絡を取るための会誌の発行が絶対必要だと発行され続けた。)(※写真:大正11年頃の発火演習)

教員と生徒の師弟関係。培ったのは「実践練磨」。

教員生徒ともに非常に少人数であったので、師弟関係もとても濃やかで、本当に一家団欒のように交わって、愉快に勉強した。その教育方法も、あくまで〝実践練磨〟に重点を置いていた。学科では、商業実践科を重視し、英語なども英語演説会などを開いて、実力を養った。当時の学生の中には、外国人と堂々と対話ができるものもあったほどだ。

一見、粗野だが・・・(15頁「四十年前の思ひ出」より抜粋要約)

近頃の学生に比べると、素朴で真剣熱心だった。当時の生徒は、その風体や言動などは粗野で、にぶくも見えたが、内に鉄のような意志と、燃えるような熱意を持ち、皆、社会に出ると立派な活躍をした。

「寄宿舎便り」(昭和7年7月 尾商同窓会報 第31号)

これまで郷関を一歩も出ず山奥の郡部や、内海の離れ小島で小さい小学生として育って来た少年が多年憧憬の尾商に遊学して、諸方から集まった同じ年配の少年と同じ宿舎に起臥を共にし、未来の大成功を夢みながら互いに競争して学問に精励することはどんなにか愉快なことであろう。(中略)中学校における修学時代は精神的に肉体的に異常の発達を遂げ、生涯の運命を支給する最も大切な時代である。

「起工式」(昭和12年12月 尾商交友会誌 第7巻 32号)

式辞 広島県立尾道商業学校校長 前田清
顧みるに、学級増加に伴う改築の議の起こりてより年を閲することまさに3年、その間、県当局の不断のご庇護と、同窓会、観成会(※当時のPTA)、旧尾道市、吉和町有志緒彦(※しょげん・多くの皆様の意)による涙ぐましき後援と、巨額の醵金(※きょきん=ある目的のために金を出し合うこと)とは、国家的未曽有の非常時に際会しながら幸いにして着々進捗し、ついに今日の盛事を見るに至れり。

尾商野球部のルーツ

昭和3年(1928)11月、尾商OB荒谷節夫氏による日本人とアメリカ人混成チームを組織してアメリカから来校。そのことが原動力になり翌年昭和4年1月、尾商に野球部を編成、練習を開始となりました。出来立てのクラブにはまだ予算もつかず選手一人一人が今日はボール、明日はバットと、ひとつづつ買い求めていったのでした。




TOP