スポーツで全国へ! 野球・ラグビー・水泳「尾道商業高等学校」(昭和)時代

授業はもちろんのことですが、昭和時代の尾道商業高校は部活が盛んになり、ついに全国への夢が実現します。商業学校時代から強さの片鱗を見せ始めていた野球部は、昭和33年~昭和43年の間に4度もの甲子園出場を決め、昭和33年には強豪である広商を降し、甲子園出場を決めます。当時の尾道では町中の人々が歓喜に沸き、試合が始まると皆がテレビに張り付いて固唾を飲んで見守っていた写真が、有志によって残されています。その活躍した選手たちは「尾商ナイン」と呼ばれ親しまれました。その後も、昭和39年の春の選抜では、全国大会で準優勝という快挙を遂げるなど、めざましい活躍が写真で残ります。

全国出場を果たしたのは、野球部だけではなく、ラグビー部も、全国への夢を叶えています。ラグビー部は、尾商の卒業生が東京教育大学でラグビーの選手となり、卒業後に帰郷してラクビー部を創設。発足からわずか7年で、3年連続で全国出場を果たしています。

野球部「尾商ナイン」広島に尾商アリ。

第40回全国高等学校野球選手権(夏の甲子園)広島県大会優勝 昭和33年(1958)

第40回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園) 全国大会初出場

昭和33年には、県下の強豪をつぎつぎ打ち破り、夏の全国大会出場の栄冠をつかむ。野球部の多くの先輩か夢にみながらできなかった甲子園出場、地元尾道市はわいた。大阪にいる卒業生はおどり上がって喜び、選手の宿舎につめかけた。入場式に堂々と進む尾商チ—ム、自分のカで甲子園の土を踏む。選手たちは感激に胸をふるわせた。この大会では、福島商を3-2の逆転勝ちで破り、2回戦で和歌山県代表の優勝候補、海南高と対戦、粘りに粘り延長11回、6-4で勝てる試合を逸した。このときのバッテリーは串畑幸典ー箱崎正義ー竹中逸雄。

第36回選抜高等学校野球大会(春の甲子園)全国大会準優勝 昭和39年(1964)3月28日-4月5日

「青春の詩 第36回 選抜野球大会」(毎日新聞「広島高校野球物語」昭和53年2月より)
センバツに伝統の重みが加わるにつれ、全国の野球レベルも次第にアップしてきた。県下からも広島商、広陵といった甲子園常連校以外の学校がグングン力をつけてきた。39年の36回大会は古豪、新鋭の激しい競り合いがみられたセンバツ史上注目される大会であった。
・・・初陣・尾道商も伏兵的存在と目されていた。尾道商のエースは小川(元巨人)。線は細いが、しなやかなバネを持ち、深く沈むシュートには定評があった。
・・・初陣同士の決勝戦 ―。海南は、現在はプロゴルファーの快投快打を誇る尾崎のワンマンチームであった。変則型の小川に対し、豪速球の尾崎。対照的な二人の息をのむ投げ合いの中で、尾道商が六回に2点を先取。しかし海南は尾崎の快打もあって徐々に息を吹き返し、結局3‐2で尾道商を降す。尾崎の投打にわたる活躍で、優勝こそ逃したが、初出場・尾道商の準優勝は立派なものであった。当時の毎日新聞は「尾道商は最後までねばり抜いて、満員のスタンドを興奮と熱狂のウズに巻き込んだ立役者としてその健闘をたたえたい。この優勝戦は近来にないスリリングな好試合だった」とたたえている。尾道商は、この大会で「広島に尾道商あり」を示しただけでなく、海南とともに甲子園に新しい時代が訪れたことを告げたのである。

ラグビー部「全国高等学校ラグビーフットボール大会」3年連続出場

ラグビー部も、発足七年で、名門校として実力を備えた。 これは部長、大村芳弘(松永市柳津町、四十四回卒)の力によるところが大きい。 彼は、東京教育大でラグビーの選手となり、卒業後は母校に帰リ、三十年五月、ラクピー部を創設した。 部員は他の部に遠慮しながら血のにじむような練習を続け、三十二年、早くも西中国予選に勝ち、全国高校ラグヒー大会に初出楊、よくがんばった。 そのときのメンバーは、キャプテン、石鎚聖造(近畿大)をはじめ、吉岡一登記、友近幹夫(中央大)斉藤安彦、岡田陽和(立教大)中川博司、大塚義和、安部博明(住友商事)水戸川裕(明治大)山口孝登(八幡製鉄)妹尾健次、小出雪雄、平田精邦、桃谷餓、村上紘三、大村照利で、つづいて、33年、34年と三回連続して、山陽地区代表になり、37年には、山陽大会の優勝戦まで進み、宿敵、崇徳高と8‐8で同点だったが、抽選で惜しくも、全国大会に出場できなかった。

伝統誇る水泳部 全国大会に出場

“全国大会に出場”
戦後は教諭、林原秀太郎、小山豊郎の指導で競泳か再開、27年・35年・36年・37年と、連続で県下優勝校となり、全国大会に出場、水泳王国尾商の名は全国にとどろいている。いま、3年生の多田弄之は、四百自由型で4分36秒8、オリンピック出場候補だ。

授業の様子




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